part.5:ウレタンバンパーモデル(前期型)

 アメリカ合衆国は第2次世界大戦で唯一本土に直接被害を被らなかった大国であり、戦争終結以来常にスポーツカーにとって最大の市場だった。
 「輸出か、死か」という戦後の英国の世相の中で、MGはTCミジェットによって一早く確固たる名声を獲得し、自ら「アメリカが最初に愛したスポーツカー」を名乗ってもいた。
 そのアメリカにおいては大気汚染、交通事故の対策の必要性が年々高まりつつあった。その中で安全に関する規制事項を定めていたのがFederal MotorVehicle Safety Standard(連邦自動車安全規制)、略して「FMVSS」である。
 極めて多岐に渡るFMVSSの内容の中で、 '74年から新たに施行されたのが「時速5マイル(約8km/h)以内での単独衝突において、ボディにダメージを与えずにエネルギィを吸収し、また自身も復元する衝撃吸収装置を装備する事」という趣旨の項目<FMVSS208>。俗に言う「5マイル・バンパー」装着の義務化である。
 FMVSSでは単に衝撃吸収バンパーの装着のみならず、その地上からの高さについても定めていた。 この事は世界の自動車デザインの分野に大きな変革をもたらす事になった。しかし新たに衝撃吸収バンパーをデザイン要素として取り込む事のできる新規開発車種は良いとして取り合えず継続販売車種については後継車種の登場まで何らかの対策を施して時間を稼ぐしかなかった。

 同時に大気汚染防止法案である「マスキー法」のアメリカ議会通過も時間の問題でありこれまた自動車企業にとっての頭痛のタネだった。
 光化学スモッグなどの大気汚染の原因物資である酸化窒素(NOx)、炭化水素(HC)、一酸化炭素(CO)などの有害物質のエンジンからの発生を段階的に抑制する事を求めたこのマスキー法をクリアさせるのは、不可能とも思える道のりだった。
 実はビッグ3は強力なロビー活動によって自国のマスキー法を事実上骨抜きにすることに成功するのだが、同じく大気汚染が深刻化しつつあった日本ではマスキー法がほぼオリジナルのまま施行されることになっていた。結果として日本は「世界で最も厳しい排気ガス規制が存在する国」となったのである。
 この基準をクリアするには、シリンダー内に送りこまれるガソリンを可能な限り完全燃焼させる事でそもそも発生する有害物質の量を減らし、さらに残った有害物質は触媒によって無害な二酸化炭素と水蒸気に変化させるのがもっとも簡単かつ安上がりの手段だった
 そのためにはできるだけ混合気を理想空燃比に近づける必要があったが、この事は大量のガソリンをシリンダーに送り込む事で大きな出力を得ていたスポーティカーのエンジンにとっては致命的とさえ言える事だった。
 おまけにオイル・ショックによって、燃費に対する一般消費者の関心はいやが上にも高まっており、「高出力だが高燃費で汚い」というスポーティカーのエンジンはもはや商品性を失いつつあった。
 「スポーティ・エンジンは死んだ」とさえ言われたこの法律によって日本の自動車企業は「燃焼」という現象を根本から見直さざるをえない状況に追い込まれた。そうしなければ企業としての存続に係わるからである。
 その懸命の努力の結果「ガソリンを無駄なく燃焼させ、最大限のエネルギィを引き出す」技術の確立に成功し、「低燃費」「低公害」「高性能」という背反条件と思われた項目の両立をもたらし、 '80年代からの世界的な日本車ブームを起こす一因となるのだが、それはまた別の話である。

 さてMGBもまたこの動きに無関係ではいられなかった。まず第1段階としてpart.4で紹介したサブリナ・バンパー装着を始めとする安全対策と、日本を含む一部仕向地用にキャブレターをSU1基に変更したエンジンが導入された。
 これにより '74年の日本仕様で車重は1025kgに増加、エンジン出力は78.5馬力に低下した。
 そして '74年9月、ボディ前後に自己復元性を持つ黒色ポリウレタン製のバンパーが装着される。皮肉な事に、この時点を持ってMGB/GTは輸出市場から撤退される事になった。クローズド・クーペとして生まれたトライアンフTR7との内部競合を避けるためである。

 ウレタンバンパーの装着はボディパネルの改造によって行われた。同時にバンパー高を規制値内に収めるために、車高が1.5インチ(約3cm)上げられた。
 これはMGB/GT V8用のフロントサスペンション・クロスメンバーの流用と、反りの強いリア・リーフスプリングへの交換によって行われたものである。
 だがこの車高の上昇は同時にロール・センターと重心位置の上昇を意味していた。結果としてMGBのロール特性は極端なまでに悪化したのである。 これ以外の変更は冷却ファンが樹脂製7枚プロペラに交換され、オイル・クーラーの取り付け位置がバンパー下のグリルの裏に変更になったなどごくわずかで、先代のブラックメッシュグリル・モデルと大差はない。

 この時期最大のトピックスは無論ウレタンバンパーの装着だが、 '75年モデルとして750台のみ限定発売された、MG誕生50周年記念のアニバーサリー・モデルがある。
 もっとも、50年前の1925年という年はセシル・キンバーの作ったワン・オフ・モデル<オールド・ナンバー・ワン>の生まれた年であり、実際の「MG」の名を冠したモデルが発売されたのはそれよりも1〜2年速いというのが現在の通説である。
 MGB/GTをベースとするこのアニバーサリー・モデルはブリティッシュ・レーシング・グリーンをベースにゴールドの太いストライプが付けられ、ホイールもMGB/GT V8用のアルミをゴールドに塗装したものが用いられた。そして計器盤に、限定車の「お約束」である通し番号付きのプラークが取り付けられている。
 このジュビリー・モデルはGTモデルの輸出はすでになされていないために英国本土のみで発売された。知る限りにおいて1台が並行輸入によって日本に存在している。

 なおこの時期MGBは正規輸入が途絶えている。そのため日本ではウレタンバンパー前期型の存在自体が認識されておらず、ウレタンバンパー・モデルはすべて '78年から輸入が再開された後期型であると思われている節がある。
 しかしその中身には大きな違いがあり、購入する際には十分な注意が必要である。


by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)
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