part.2:Mk.2

 1967年10月、MGBは変速機/補器系に改良を受けた。具体的にはノン・シンクロだった1速にシンクロメッシュが付けられると共にボーグ・ワーナー社製の3速自動変速機がオプション設定され、発電機が交流オルタネーターになると共にアースの極性がマイナスになったのが主なポイントである。

 この時点でG−HN3(GT:G−HD3)だった車種記号はG−HN4(GT:G−HD4)へと更新された。
 MGAやミジェットなどとは異なり、MGBは公式にはマーク・ナンバーで呼称されたことはない。そのため現在でも文献によってMGBをマーク・ナンバーで分類する場合に相違があるなど混乱が見られる。
 マーク・ナンバーとは元々「大きな改良の時点をもって更新されるものである」と言えるから、車種記号が更新されたこの時をもって「Mk.2」とする解釈が理に適っていると言える。

 ともあれMGBはMk.2となった事でほぼ現在の交通環境でも通用する実用性を備え機械製品としては完成を見たと言える。

 Mk.1とMk.2を外観で完璧に見分ける事はほぼ不可能である(Mk.2に切り替わる半年前からバックアップランプが装着されているのが一つの目安ではある)。目に見える部位で相違は主に内装に集中している。まずドア・ハンドルがレバー式からその後生産終了まで使用されるプレート型になり、シフトノブが茄子型から球形となり、シフトロッドがノブの下で折れていたのがストレートとなると共にラバー・ブーツが装着される
 更に対米仕様の計器盤に限っては、Mk.1が英国仕様を鏡像としていたのに対して助手席側にセイフティ・パッドが付いた専用となる。

 この時期のトピックスはもう一つある。

 ドナルド&ジョフリィ・ヒーレィ親子とオースチン・モーター・カンパニーのジョイント・ベンチャーであるオースチン・ヒーレィ100系(通称「ビッグ・ヒーレィ」)が生産開始から14年を経ていよいよその生涯の終焉を迎えその後継車問題が本格化していた.。
 BMCが意図したのは「スプリジェットの大型版」だった。つまり基本的に同じ車をMGとオースチン・ヒーレィとでエンブレムを変えて複数のブランドで販売し、結果として総台数を稼ぐという「バッジ・エンジニアリング」という手法である。
 そのベースに選ばれたのは、無論MGBだった。ここでpart.0で紹介した「大きなエンジン・ベイ」が役に立ったのである。
<ADO51(オースチン・ヒーレィ版)>&<ADO52(MG版)>とナンバリングされたこのスーパーMGB計画は、これまたADO23(MGB)と同じくエンジン・ベイに収めるべき中身が大きな問題だった。
オースチン・ヒーレィ100/4の2600cc4気筒エンジンはすでに古く、また3000シリーズで用いられていた6気筒エンジンは大きく重く、またこちらも古かった。
 もう一つ、オーストラリアで生産されていたBタイプ・エンジンの6気筒版<ブルー・フラッシュ>エンジンも候補に挙げられ、実際にMGBに搭載してテストが行われた。しかし結果は上々だったものの生産設備の新設が必要だったために結局このエンジンの採用は断念された。

 歴史は繰り返す。折よく新型オースチン3000サルーン用としてCタイプ・エンジンに7メイン・ベアリング化などの改良を施すことになったのである。MG設計陣はこの改良型Cタイプ・エンジンを新たなミッション/ディファレンシャル・ギアごとMGBのボディに押し込む事にしたのである。
 しかし今度はそう楽な仕事ではなかった。いかに改良が施されたとは言え、4気筒用のエンジン・ベイに6気筒エンジンというのはいかにも大きかった。しかもCタイプ・エンジンは全鋳鉄製で、Bタイプに比べて実に95kgも重かった(これでも20kg軽減されたのだが)のである。 結果的にラジエターは大幅に前進させられ、しかもフロント・サスペンションはスペースを稼ぐ事のできるトーションバー・スプリング形式に変更された。それでもなおエンジンは収まりきらず、アルミ製ボンネットにはSUキャブレターの逃げのための膨らみが付いた大きなバルジが設けられた。
 これに伴ってボンネット先端に設けられていたMGのグリル・エンブレムを受けた形の膨らみは削除された。因みに日本の書籍で「MGBのグリルが '69年に意匠変更を受けた際にこの部分が残されたのはボンネット・キャッチがあったためである」という記述をしたものがあるが、これが誤りであることはこの事実からも明らかである。

 もう一つの4気筒MGBとの相違がタイヤ・サイズである。馬力がBタイプ・エンジンの5割増しになったのを受けて、ホイールがそれまでの14インチから15インチへと拡大されたのだ。このため車高は4気筒MGBよりも若干高くなった。
 変速機は電磁式オーヴァドライヴがオプション設定された前進4速マニュアルまたは前進3速オートマチックであることは4気筒版と同一だが、ミッション本体は別物でギア比もより高く設定されている。これはディファレンシャル・ギアも同じで、4気筒版の3.909:1がより高いギア比に変更された。 このスーパーMGB<MGC>はトゥアラー/GT同時にMGBがMk.2に進化するのに合わせて市場投入された。

 しかしMGCはあまりにノーズ・ヘビーな車だった。それは元々軽くはなかったMGBのアンダーステアリング性向をさらに悪化させていた。その操縦性と6気筒ゆえのエンジンのスムーズネスとパワーゆえにMGCは「スポーツカー」というよりはむしろ「長距離高速トゥアラー<GT>」だと言える。

 とは言うもののこのMGC/GTのボディをアルミの多用で軽量化したワークス・レーサーである、通称<MGC/GTS>はBMC最期のワークス・レーサーとしてセブリング12時間レースなどに参戦した。

 この時期英国自動車産業界は2度目の大きな変革を見る。1度目は'52年に行われたオースチン/モーリスの合併によるBMCの結成である。トヨタと日産の合併にも例えられるこの合併劇はその後 '66年にジャギュア/ディムラーをも合体させてBMH(British Motor Holdings)に発展する。ところがこのBMHはわずか2年しか存在することを許されなかった。 '68年になって今度はトライアンフ/ローヴァを擁するレイランド・グループとが合併して、ここにBLMC(British Leyland Motor Corporation)の誕生を見たのである。これは言わばトヨタ/日産にホンダが加わったようなもので、BLMCは英国に残された最後の民族資本量産メーカーだった。

 BMCからBMHを経てBLMCに至るこの一連の動きは丁度MGBがMk2に進化した時期と重なる。このためこの時期のMGBのカタログは裏表紙に記載されたメーカー名によってBMC版とBLMC版の2種類が存在している

 Mk.2によって工業製品としての完成を見たMGBだったが、そこに待っていたのは英国自動車産業衰退の波に翻弄される「怒濤の13年」だったのである。



by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)




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