The birth of "ADDER"
part.7 : From ADDER to RV8


 アダーはADC社でリチャード・ハンブリンを始めとするRSPスタッフの コントロールの下、1次モデルとは別のMGBボディ上に新たなクレイ・モデルを構築してスタイリングのモディファイに着手された。
 今度は右側にスタイリング・インターナショナル社の1次クレイの修正版を 、そして左側にさらなる外観上のアピール力を与えるためにブリスター・フェンダー形状に変更されたデザインが与えられた。

 フロントエンドのデザインもまたより強いグラフィックとするために、主に バンパー形状が変更された。
またヘッドランプも1次クレイのポルシェ911流用案とは別のデザインもト ライされた。それは通常の丸型ヘッドランプを透明カバーで覆った、ジャギュアEタイプMk1を思わせる物だった。
 これは同時にポルシェ911用ボッシュ製ヘッドランプの使用が認められな かった場合の保険という意味も含まれていた。
 グリル形状も再度検討の俎上に上げられた。ジェリー・ニューマンのオリジ ナル・スケッチにあった一体式のグリルの中央に、オクタゴンがはめられた部分と同じ幅のリブが取り付けられた。こうして現れたフロント・フェイスは、ウレタンバンパー仕様MGBとの関連が明らかだった。
 しかしメッキバンパー時代のMGBや、さらにそれ以前のMGと結び付ける 試みが一切公表されていないのは、いささか不可思議な事であると言えよう。

 リア・エンドに付けられていたスポイラーは、ADCでもトライされた。し かしその反応は2つに分かれ、そのためアダー計画末期までオプションの一つとして考えられていた(無論最終的には落とされたが)。
 リア・エンドにおいてはテールランプが問題だった。専用のユニットは高価 で、おまけにアダー計画自体の予算は極めて限られていたためである。しかし肝心の共用できるユニットが、ついに見つからなかった。そのため結局専用ユニットを起こさざるをえなかったのである。
 一部日本の自動車雑誌などでは「RV8のテールランプは共用」(可能性が あるのは、ベントレィ・コンティネンタルRだと思われるが)という記事も掲載されたが、これを見る限りそれは誤りである可能性が高い。
 フロント・ウィンドゥと幌もまた問題だった。ウィンドゥ・フレームを変更 して高さを変えてしまえば、幌も新しくする必要が出てくるためである。と言う訳でウィンドゥ・フレームの角度と高さはMGBのまま残された。

 こうして完成したモデルは、内装も含めて後の市販型に極めて近いものだっ た。
 再度ケヴィン・モーレィにアタックするのに万全を期するため、チームはA DCのクレイ・モデルから起こしたFRPパーツをDEV1に装着することにした。この過程でクレイ・モデルはバラバラになるが、モデルの完成度を生産車に近づける事ができる。金と時間があればクレイの復元は可能だが、チームになかったのがその二つだった。
 開発は以後このFRPモデルを基に行われることになるのだが、それが後に 頭痛のタネを引き起こすことになる。

 1991年3月、ブリティッシュ・レーシング・グリーン・メタリックに塗 られて完成した2次モデルのプレゼンテーションが行われ、ここでチームはモーレイからのデザイン承認を受けた。
 そして6月、PR3/PR5そしてアダーの世界規模でのパネル評価会がマ ンチェスターで行われた。ここに集められた人々の持つ「MG」に対するイメージはシンプルなものだった。
 「代表的スポーツカー・ブランド」「小さくて、赤く、面白い」である。
 こうした人々にとってPR3は歓迎されたものの、DR2/PR5はジャギ ュアやアストン・マーティンのコンセプトであってローヴァましてやMGの物ではないと断じられた。
 一方でアダーは「MGB誕生30周年記念限定車としてであれば」という限 定付きで、予想される高価格は許容された。
 7月、ケビン・モーレィはアダー計画予算申請書にサインし、8月に正式に 計画は市販に向けて動きだした。
 かくして「MG復活」はPR3とアダーの手に委ねられる事に決定したので ある。

 アダーの最終的なスタイリングは、フロント・フェイスはバンパーこそより アグレッシウな形状になったものの結局オリジナル・デザインに近い、最初のプロポーザルに準じたものに落ちついた。またヘッドランプはポルシェ911用ボッシュ社製が使用できることになった。
 そしてフェンダーは新たにデザインされたブリスター形状の物が採用され、 ここでついに毒蛇は世に出る姿を定めたのである。

 次に行われたのがDEV1を基にしたランニング・プロトタイプの制作と、 製造工具の検討である。これはアビィ・パネルズ社(量産型アダーの専用前後フェンダーを担当する)の子会社であるデスカーテス・デザイン社に依頼された。
 その一方でRSP内部での人事移動が行われた。これによりアダー計画の強 力な推進力だったリチャード・ハンブリンはRSPを去り、ドン・ワイアットが後を継ぐことになった。
 DEV1がデスカーテス社に着いた翌日、そのドン・ワイアットの下に、緊 急電話が入った。
 「トラブルです!」
 DEV1は元々フロリダから持ってきた左ハンドル仕様の中古MGBを基に していた。ところがこいつが実は事故車だった事が判明したのである!
 起きた事はこうである。
 デスカーテス社ではやってきたDEV1は、ボディ形状を計測するための精 密なフロアの上に置かれた。この上でボディ形状が測定により数値化され、コンピュータの中にデータとして蓄えられる事で以後の作業すべての基本となるのである。
 ところがフロント・ウィンドゥから前の部分で、過去の事故の影響かボディ
が約20mmも曲がっている事が判明したのである。
 当然ボディラインの修正が必要になった訳だが、容易に作り直しができるは ずのクレイ・モデルはすでにこの世にはなかった。DEV1用のFRPパネルの型取りのために破壊された後だったからである。
 しかしプロジェクトはすでに進んでいる。もはや戻る術はなかった。
 デスカーテス社はベストを尽くして歪みを正すための試みを行った。それを 受けてアビィ・パネルズ社のもう一つの子会社であるアルバニィ亜鉛社が数値化情報を作り、そこから製造用マスター形状を作り上げた。 かくして1991年のクリスマス、RSPのドン・ワイアットは毎日のようにアビィ・パネルズを訪れ、ディック・バートラムはほとんどそこに住み込む羽目になったのである。
 この出来事はマスター・モデルを再度作る時間も費用もなかったから、最悪 アダー計画そのものの白紙撤回も予想されうるトラブルだった。
 毒蛇はまたも危うい事態を辛くも逃げきったのである。

 1992年1月にはアダーのスタイリングはディティールに及ぶまでほぼ確 定し、10月の正式発表も決定した。
 3月12日、ローヴァは「MGB誕生30周年記念として、V8エンジン搭 載などの改良を加えたMGBを秋から限定発売する」と公表した。日本においてはこのニュースは朝日新聞夕刊社会面にMGBの写真付きで掲載されるという、1企業の新製品の発表としては極めて異例かつ破格の扱いで報道された。
 この事実一つを取ってみても1年半後に千葉県幕張で起きた狂想曲は十分に 予想できたのだが、なぜか英国本国ではさほど重要視されなかったようである
 6月にはDEV1(無論ボディの修正後である)を元にして更に写真修正が 施されたリーフレットが作成され、「MG復活」のティーザー・キャンペーンが各マスコミを使って展開された。9月には各MGクラブ/MG専門誌のメンバーによる評価会が開催された。

 そして1カ月後の10月20日、12年のブランクを埋めて路上に出る新M Gスポーツカーはバーミンガム・モーターショウの会場でついにスポットライトを浴びて人々の前に姿を現したのである。
 その名は「RV8」。「MGB誕生30周年記念」と言われたその限定生産 台数は2年間で2000台、価格はMG史上最高額の26000ポンド(当時の円−ポンドレートで約600万円!)と公表された。
 「R」の名の由来は色々に語られるが、スティーヴ・シェルマーは「単に過 去に使用されておらず、音感が良かったからだ」と語る。
 実際には「Rタイプ」は(確かに市販車ではないが)1935年に作られた 全輪独立懸架サスペンションを備えたシングルシーター・レーシングカーで、独立企業であったMGカーカンパニィ最期のワークス・レーサーとしてMG70年の 歴史の中に存在している(Rタイプ初陣の4カ月後、MGカーカンパニィはナッフィールド・グループに売却された)。

 この「MGスポーツ復活」の場にはオリジナルMGBのボディ設計/デザイ ンを行ったドナルド・ヘイターの姿もあった。
 30年も昔に生み出してとうに死んだと思っていたら、想像してもいなかっ た姿に変身して戻ってきた我が子と再会した親の心境というのは、いかなるものだったのだろうか。




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